価値観

お肉を食べたいと思ったら焼肉食べに行くし焼肉はちょっと違うと思ったら牛丼もありかなと思って牛丼屋さん行くのも良いしその中でも店舗はたくさんあるから選ぶし魚が食べたいと思ったら回転寿司行くし家から出るのがめんどくさいと思ったら宅配頼むしカレー食べに行こうとしたけど出るのがめんどくさいと感じたら家で作るし、選択肢の中から自分で選ぶんですよね。「これが良い」のか「これで良い」のかは別として自分が選ぶんですよ。焼肉食べたい気分なのに何で回転寿司があるの、と思ったとしても「日本にある回転寿司のお店潰して」とはならないし。だってもしかしたら今日魚食べたい気分の人もいるかもしれないから。

 

 

 

 

 

私が好きな韓国のアイドルグループのドキュメンタリー映画が日本で公開される予定です。けれど今その映画の公開を中止を求める声が挙げられています。メンバーが着ていた服のデザインが原因で日本の音楽番組出演が中止になりました。まだ発表されていなかった日本でのスケジュールも白紙という報道がありました。まだ世に出ていない情報ならもうそのまま世に出ずにファンが知らないままで良かったのになと思います。話は少しずれましたが、原因は「服」です。現に服をデザインした方の謝罪文は出ているし事が大きくなっているのは事実です。でも、そこまで事が大きくなる必要があるのかなと私は思うしなんでこの件があるまで1ミリも興味なかった人たちのせいで映画が観れなくなるのかなと私は思います。初めに書いた通り選択したんですよ自分で。「観る」「観ない」これを選択した上で観たいからお金を払ってチケットを買うんですよ。「韓国人が日本で映画?このグループって今話題のグループか。絶対反日だ!中止しろ!」と言う人や「あの芸能人も言っているからこのグループは反日なんだな」と全て鵜呑みにして群がるような人たちがいたとして、じゃあもう私たち観たい組のことは放っておいてほしいんですよ。「観たくない」なら観なくて良いんですよ。観たい映画の公開日がこのグループの映画と被ってるとならば映画館を変えるなりすれば良い話であって、何もわざわざ「観たい」という人の気持ちをぶち壊す必要は全くないです。ほんとにない。放っておいてほしいです。これ以上傷つけないで。

 

 

 

 

 

こういった日韓の問題が起こったときどちらの国にも言えることですが自国を高い位置に持っていきすぎなんですよね。普段生活していてもそれは感じられます。例えば食事の席で「うわ見て。行儀悪!お茶碗置いて食べてるで。あれは韓国人かな」みたいなこと言う人いるじゃないですか。たしかに日本では持てるお茶碗は持って食べた方が行儀が良いとされてます。けどそれは日本のルール、マナーであって世界的なものではないです。韓国のマナーはお茶碗は置いて食べることが良いとされてるし韓国のお茶碗は熱を通しやすいから熱くて持てないです。日本を基準に自分を基準にしすぎて周りの人を悪く言うのは聞いてると不快です。何度か韓国に旅行に行ってるけれど、帰り荷物が多すぎて往復して地下鉄の階段を下りていると韓国の方が私と友達のキャリーケースや荷物を重いのに一気に運んでくれたしお店とかできっと聞き取りにくいのに私が話す韓国語を聞いて嬉しそうにしてくれる人もコンビニのお姉さんが私と友達がお店出るときに「おやすみなさい」って考えながら日本語で言ってくれたこともあったし。ホームステイしたときもたくさん親切にしてもらったし。一部報道では韓国の嫌なことばっかり言ってるけど、そういう人は自分の目で見て感じるべき。私が運良くまだ旅行先で嫌な思いをしていないだけなのかもしれないし次韓国に行けばトラウマになるようなことが起こるかもしれない。もう韓国語を勉強したくないなと感じるかもしれない。韓国に日本人が嫌いな人だと思う人がいることは分かってる。けれどそれは「個人」であると思う。まあこれはどの国にも言えることだけど。ただ私たちが住んでいる「国」であってそれ以上もそれ以下もないから。確信のない情報に群がるネトウヨは一生その狭い視野で過ごすんだろうな。「韓国が嫌い」とか「日本が嫌い」と思うことは仕方ないと思う。けど、それを好きだと言ってる人に向かって伝えるのは違うと思う。

 

 

 

 

 

今日は彼らがずっとずっと目標にしていた東京ドーム公演があるし年明けまである日本ドームツアーが始まる。つい最近まで何も知らない今回の件で知って確認もしていない情報に群がって批判ばかりする人たちに邪魔されたくないし壊されたくない。メンバーが会場にいる人が応援している人が幸せなまま終わる公演になってほしいな。メンバーが日本にいる間嫌な思いをせずあったかい気持ちで帰れることを願っています。

現代っ子の悩み

趣味とか好きなアイドルとか共通のものからSNSで繋がって仲良くなったり連絡取り合ったりイベントで会うみたいな現代ならではの出会いってありますよね。私にもそういう出会いがあるんですけど、ふとしたときに「もし私が死んだら死んだことを相手は知らないまま過ごすのか」ってちょっと重いこと考えるときがあります。

 

 

 

 

 

携帯で連絡取れない時期は家の電話で話したり手紙を書いたり年に数回会って遊んだり常にお互いを知っているわけではないけどずっと仲良い友達がいて、それこそ出会いがSNSなのでスマホなしでは連絡取りづらいんですけど、もっと歳をとってそれこそ文字だけのやり取りになったとき、まあまだこれは連絡取れてるから良いんですけど、死んじゃったとき相手に知らせることが出来ないし相手は知らないまま過ごしますよね。こないだ急にそう思って「え、どうする?」ってなったんですよ。みなさんならどうしますか。これ絶対的な答えはないと思うんですけど、私は結婚してたら旦那さんに「私に何かあったらこの名前の人にLINEのトーク開いて大丈夫やから連絡してほしい」ってお願いすることにしました。住所知ってたら手紙でも良いな。もし結婚してなかったら友達とか家族にお願いします。みんなSNS何かしら更新し続けてほしい。切実な願い。

 

 

 

 

 

SNSって2日に1回ぐらいめんどくさく感じるし投稿見て誰も悪くないのに勝手にイライラしたり、そのイライラした自分に腹が立ったり何かと疲れることが多いなと思うし、文字は勘違いしやすいし、時と場所を考えず写真撮ったり(私も可愛いカフェに行ったら写真撮るし好きな景色を見たら写真撮るけど周りは見ます)良い部分も考える部分も多いSNSだと私は思うんですけど、SNSがあるからこそ好きなアイドルの情報が入ったりそれこそ出会いがあったりするので感謝してます。

 

 

 

 

 

おばあちゃんになっても他県の友達集めて「あの頃はこの人推してたよね」とか「このライブが」とか話したいなあ。

ささくれ

自分の容姿について悩んでるのを知ってて指摘してくる人の気持ちは一生分からないし言われた側はその日以降ふとしたときに思い出すことになるしそれがどれだけ重大なことか言った本人は分かってないことが多い。

 

 

 

 

 

「肌汚いから終わってんなあ」

仲いい男子から言われたときいつもならうるさいねんと返せたしだからなに?と強気で言えたのにその日は上手く返せずずっと泣きそうでそれ以来ふとしたときに思い出す。昨日も今日も鏡の前で思い出したし明日も思い出すと思う。今でも言ってきた本人とは仲良いし普通に喋れるし面白いから話してて楽しい。言われた時期が容姿について最大に悩んでいたときでタイミングが悪かったから悲しかったけど今は悲しみとか怒りとかない。けどこの言葉は一生忘れないし忘れられない。笑い話になるならないではなくて忘れられない。

 

 

 

 

 

「ニキビやばいなあ」

鏡を見るだけで涙が出るみたいな時期に言われた言葉。せやねんやばいから皮膚科行かなあかんなと思てて、返しはこれが限界。結局そのあとみんながいなくなってから泣いて仲良い子が箱ティッシュ持って大丈夫と励ましてくれた。この言葉にも今は怒りも悲しみもないけど一生忘れられない言葉。このあと皮膚科に行きました。もらった薬のおかげでニキビでが治りつつあるうれしい。

 

 

 

 

 

体型とか顔とか背とかそういうのは人それぞれ好みがあるし地球にこれだけ人がいれば私のことを褒めてくれる人もいるかもしれないけどニキビで肌が汚いって事実は誰がどう見ても分かるからすごいストレートに伝わってきてショックで悲しいってそのときは友達に言ってたなあ。言った本人からの謝罪とか慰めを求めてるわけではなくて言った事実は一生消えないってことを分かってほしい。

 

 

 

 

 

さっき少し書いたけど許す許さない笑い話になるならないとかではなくて今は悲しみも怒りもないけど言われた言葉はずっと心の中にあって、ふとしたときに思い出すってことを分かってほしい。言葉も行動も。あのとき泣いてたよなって後々笑い話になっても全部消えるわけではないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の容姿について悩んでるのを知っててそれを指摘してくる人は言った日以降大事なときにトイレに行きたくなる腹痛がきますように。ささくれが治りにくいでもいい。1日1回足の小指ぶつけるでもいいし毎週録画のめっちゃ重大な放送の日だけ録画されてないでもいいなあ。